LOGIN送信ボタンを押したあと、久瀬湊人はしばらくスマホの画面を伏せたまま動けなかった。
家側へ、あそこまで明確な言葉を送ったのは初めてだったからだ。 学校生活への干渉をこれ以上許容できない。 学校周辺での接触、観察、校内への直接接触を見直してほしい。 必要な連携は、自分個人への事前通知を前提にしてほしい。 文面にすれば簡潔だ。 だが、その中身は今までの自分の立ち位置を少しだけ変えるものだった。 これまでは、配慮を願う側だった。 事情を抱えたまま、できれば穏便に、できれば学校生活へ触れないようにと、曖昧な線で頼んでいた。 でも今回は違う。 学校生活を守るために、明確に条件を出した。 それはわがままではない。 けれど、少なくとも“ただ従うだけの側”ではなくなるということだ。「……やっとかもしれないな」<小鳥遊絃葉は、緊張すると姿勢がよくなる。 これは本人にも自覚がある癖だった。 肩が上がるとか、 指先が落ち着かなくなるとか、 そういう分かりやすいタイプではない。 むしろ逆だ。 背筋がすっと伸びて、 返事が少しだけ丁寧になって、 笑うタイミングまで慎重になる。 だから初対面の人にはよく「落ち着いてるね」と言われる。 でも本当は全然落ち着いていない。 緊張して、失敗したくなくて、変なことを言わないようにしているだけだ。 そして今の絃葉は、ここ最近で一番、その“落ち着いてるふり”が必要な状態だった。 スマホの画面には、AstraLinkの大型リアル企画メンバー一覧が映っている。 何度見ても変わらない。 変わらないのに、何度でも見てしまう。 先輩ライバーたちの名前。 大手の中堅組。 人気の高いコラボ慣れした面々。 その中に、自分の名前もある。 小鳥遊絃葉 そして、その少し上に。 天瀬アルト「……本当に同じ現場なんだ」 小さく呟く。 何度目か分からない確認なのに、まだ実感が追いつかない。 天瀬アルト。 AstraLinkの中でも、特別に“空気が綺麗な人”だと絃葉は思っている。 もちろん数字がすごい。 登録者数二百万超え。 グッズも強い。 記念配信も安定して伸びる。 女性人気も高いし、男性ファンからも“安心して見られる王子枠”としてかなり支持されている。 でも絃葉が惹かれているのは、そこだけではない。 話し方。 間の取り方。 相手が話し
月曜の朝は、だいたいろくでもない。 久瀬湊人は、そういう偏見を持っている。 もちろん、理屈の上では曜日に罪はない。 月曜日そのものが悪意を持って何かを仕掛けてくるわけでもないし、日曜の夜にスマホへ届いた通知の内容が重いからといって、それを月曜日のせいにするのも筋違いだとは思う。 だが、それでも月曜の朝に限って、人生の厄介ごとは少しだけ輪郭をはっきりさせてくる気がする。 その日もそうだった。 久瀬湊人は、教室へ向かう前の階段の踊り場で一度だけスマホの画面を見て、小さく息を吐いた。 AstraLink運営からの連絡。 件名は、あまりにも業務的で、だからこそ嫌な予感しかしないものだった。 大型リアル連動企画・正式進行のお知らせ 昨夜のうちにざっと目は通していた。 だが、寝て起きても内容が軽くなるわけではなかった。 むしろ朝の頭で読み返したことで、余計に現実味が増している。「……ほんとにやるのか」 思わず小さく呟く。 大型リアル企画。 顔出し企画ではない。 そこは最低限守られている。 だが、それで安全とはとても言えなかった。 内容は、事務所合同の大型キャンペーンと連動した現地収録、街頭ビジョン展開、限定コラボ映像、音声素材の新規収録、現場コメント、リアル導線を使った宣伝施策の組み合わせ。 表向きには、あくまで「VTuberらしい形でリアルと接続する」ための企画だ。 だが、実務側の文章はもっと露骨だった。 平日夕方の事前収録あり。 休日の拘束時間長め。 参加メンバー間の簡易顔合わせあり。 現地入り時間は厳守。 交通導線は個別管理。 つまり
送信ボタンを押したあと、久瀬湊人はしばらくスマホの画面を伏せたまま動けなかった。 家側へ、あそこまで明確な言葉を送ったのは初めてだったからだ。 学校生活への干渉をこれ以上許容できない。 学校周辺での接触、観察、校内への直接接触を見直してほしい。 必要な連携は、自分個人への事前通知を前提にしてほしい。 文面にすれば簡潔だ。 だが、その中身は今までの自分の立ち位置を少しだけ変えるものだった。 これまでは、配慮を願う側だった。 事情を抱えたまま、できれば穏便に、できれば学校生活へ触れないようにと、曖昧な線で頼んでいた。 でも今回は違う。 学校生活を守るために、明確に条件を出した。 それはわがままではない。 けれど、少なくとも“ただ従うだけの側”ではなくなるということだ。「……やっとかもしれないな」 小さく独り言が落ちる。 遅かった。 たぶんかなり。 でも、今の自分にはこのタイミングでしかできなかったのだろうとも思う。 文化祭の頃の自分には、まだここまでの覚悟はなかった。 打ち上げに行けなかった夜の自分は、ただ残念がることしかできなかった。 教室へスーツの男が来た時は、ただ冷えるしかなかった。 でも今は違う。 守りたい場所が、かなり具体的になってしまった。 窓際の空気。 何もないふりで笑える昼休み。 駅までの道の、少しだけ静かな会話。 そういうものを、自分の外側の事情で壊したくない。 守ってもらってばかりでは、たぶんもう気持ちが悪かったのだ。 ◇ 翌朝、教室へ入った瞬間に、窓際の四人がほぼ同時にこちらを見た。 こういう時、もう驚かない自分がいる。 最近の自分たちは、朝一の顔色や空気の違いで、
守られることに慣れるのは、たぶんあまり健全ではない。 久瀬湊人は、金曜の夜、自室のベッドに腰を下ろしたままそんなことを考えていた。 ここ数日で起きたことを順に並べれば、たしかに自分は守られていた。 真白には、異常事態の前に言えと釘を刺された。 すばるには、細かい違和感を拾われて、軽い言葉のまま逃げ道を潰された。 紬希には、弱っている時ほど静かに近くまで来られて、言葉をごまかせなくなった。 日野には、気楽な顔で「あとで知る方がだるい」と正論を置かれた。 朱莉には、正面からぶつからず盤面を変えるやり方を見せられた。 誰も、露骨に「守ってあげる」なんて言わない。 でも結果として、自分が一人で崩れる道はかなり減っていた。 ありがたい。 かなり。 そして同時に、そのありがたさに甘えている自分も少しだけ嫌だった。「……これじゃ、だめだよな」 小さく呟く。 窓際の空気を守りたいと思っているのは自分も同じはずなのに、 今のところは守ってもらってばかりだ。 もちろん、事情の中心にいるのは自分なのだから、完全な対等ではいられない。 それは分かっている。 でも、それを理由に受け身のままでいていいわけでもない。 文化祭の頃には、ただ“普通に混ざりたい”と思っていた。 打ち上げに行けなかった夜には、“来たかった”と痛感した。 スーツの男が教室へ来てからは、“壊されたくない”が加わった。 そして今は、そこからさらに一歩進んでいる気がする。 守ってもらったからこそ、今度は自分でも守りたくなる。 それはたぶん、秘密を隠すための防衛とは少し違う。 もっと私的で、 もっと面倒で、 でもずっと正直な動機だ。
何も解決していないのに、少しだけ安心できる日というものはある。 それはたぶん、問題が消えたからではない。 問題が、今日だけは少し遠い位置にいるからだ。 金曜の朝、久瀬湊人は校門をくぐった瞬間に、それを感じた。 視線がないわけではない。 最近はもう、自分の方が勝手に周囲を見てしまうから、完全に気にしないというのは無理だ。 でも、あの“通行人のふりをした不自然な静けさ”が、今日はかなり薄い。 用務員がいつもより少し門の近くにいる。 事務の職員が一度外へ出てきて、近所の人と何か話している。 校門付近にある“大人の目”の密度が、昨日より明らかに違う。 朱莉がやったことは、大げさではない。 でも、その“少しだけ学校の周辺が見られている”状態が、監視する側には確実にやりづらいのだろう。 ありがたい。 そして、そのありがたさが今日はやけに身にしみる。「……静かだな」 心の中でそう呟いてから、自分で少しだけ苦笑する。 静かなだけで、こんなに楽なのかと。 ここ数日で、自分の神経は思っていた以上に擦り減っていたのだろう。 ◇ 教室へ入ると、窓際の空気も少しだけやわらかかった。 日野が前の席でぐったりしているのはいつも通りだ。 すばるはスマホを見ながら「今日の情報量、まだ人間に優しい」とか意味の分からないことを言っている。 真白は「朝から日本語が雑」と切り、 紬希はそれを聞いて小さく笑う。 その流れの中に、自分も今日は少しだけ素直に入れた。「おはようございます」 声をかけると、四人がそれぞれ返す。 そして、すばるがすぐに言った。「今日ちょっとまし」「なにがでしょう」
御門朱莉は、正面からぶつかるのが強い人間を、少しだけ雑だと思っている。 もちろん、真っ向から言い返して勝てる場面もある。 力で押し返せる状況もある。 でも現実には、そういう勝ち方はたいてい後に残る。 顔を立てられなかった相手は、別の形で戻ってくる。 立場を潰された人間は、より面倒な手段を取る。 正しさだけで押し切った場面ほど、空気は一度濁る。 だから朱莉は、盤面ごと少しだけずらす方を好む。 相手が動きづらい位置へ置く。 見ているだけでは利益が出ない状況を作る。 目的を果たす前に、“ここはやりにくい”と思わせる。 そういう形の方が、学校の中ではずっと綺麗だ。 そして今、久瀬湊人を見ている連中に対して必要なのも、たぶんそっちだった。 ◇ 金曜の朝、朱莉は校門の外に立つ男を見て、ほとんど確信していた。 今日もいる。 別人だ。 でも種類は同じ。 学生でも保護者でもない、 業者でもなく、 ただの通行人のふりをして、 学校の出入りと人間関係の動線だけを見ている視線。 そこへ正面から「何をしているんですか」と聞きに行くのは簡単だ。 だが、それは最悪手に近い。 相手が引けばそれで終わる。 でも引かない場合、こちらが認識していることを相手へ教えるだけになる。 しかも学校の近辺で、女子高生が見知らぬ大人へ絡む形は、それ自体が余計な話になる。 つまり、正面から戦う意味が薄い。「……じゃあ、盤面ね」 小さく呟き、朱莉はスマホを取り出した。 やることは単純だった。 校門周辺の“大人の目”を増やす。 生徒だけが無防備に出入りする空気を、少し







